命題は記述されるべき事実の経験的内容についてなら「語る」ことができる。しかし、その形式的構造、すなわち論理形式については「示す」ことしかできない。
ウィトゲンシュタインはアスペクト知覚において、われわれは対象の色や形についてなら「語る」ことはできるけれども、他方それに内在する有機的体制については「示す」ことしかできないと指摘している。
事例として、アスペクトの転換に際し、それまでは模写ができてしまえば無用の説明と思われ、また実際そうであったものが、可能な唯一の体験表現になってしまうと述べている。
そして、野家啓一はその著書「科学の解釈学」において、R・ペンローズやR・ドーキンスを痛烈に批判している。
曰く、人間の「自由意志」を量子力学的不確定性によって説明する物理学者や、生物界に見られる利他的行動を根拠に「遺伝子の道徳性」を論ずる社会生物学者などのなかに、われわれはまさに20世紀的な「俗悪さ」の一端を嗅ぎ付けることができると。